2月生まれの作曲家 メンデルスゾーン
2月生まれの作曲家 メンデルスゾーン
ハイドンやモーツァルトの時代では有名であったイタリアの作曲家でありチェロ奏者
2月17日コレルリ
イタリアの作曲家でありヴァイオリニストでヴィヴァルディより25年、大バッハ、ヘンデルより32年年上
2月23日ヘンデル
ドイツ出身でイタリアで成功した後にイギリスで長年活躍した作曲家でありオルガニスト
フェリックス・メンデルスゾーン(1809年~1847年)2月3日生まれ
https://yumepod5.xsrv.jp/wp-content/uploads/2020/01/2-3-4_brillante_2020.mp3
★同年代の作曲家には、ショパン、リスト、シューマンなどがいます
★ドイツロマン派作曲家・指揮者・ピアニスト・オルガニスト
メンデルスゾーンの有名な曲
♬結婚行進曲
「夏の夜の夢」という付随音楽の中の1曲
最近は、昔ほどは使われなくなってきたような気もしますが、結婚式の定番ですね。
付随音楽というのは、今で言うとテレビ番組や演劇などで使われる音楽、映画ですと「映画音楽」「サウンドトラック」などといわれたりしますが、シェイクスピアの「夏の夜の夢」という喜劇(1590年ごろ)につけた音楽で、その中の1曲です。
♬ヴァイオリンコンチェルト(協奏曲)ホ短調1845年
ベートーヴェンの作品61、ブラームスの作品77と並んで、3大ヴァイオリン協奏曲と称される。高校生の時によく聞いていたし、伴奏を頼まれた際の苦いエピソードも💦
初演は指揮がメンデルゾーン、ヴァイオリニストがフェルディナンド・ダーヴィット(1810~1873年)
彼は妹のピアニストとよく演奏旅行に行き、イギリスのヴィクトリア女王のピアノ教師でもありました。
そんなダーヴィットは「演奏できないのならば、もう生きていようとは思わない」と発するほど真の演奏家であり
メンデルスゾーンの良き相談相手でもありました。
♬フィンガルの洞窟1830年
スコットランドヘブリディーズ諸島に行ったときにインスピレーションを受け作曲された曲
個人的に好きな曲
♬無言歌集・・・各6曲8集
無言歌とはよく言ったもので、まさに言葉のない歌。
こういう作風はグリーグ、モシュレスなどにも影響を与えました
♬「甘い思い出」 Op19-1
このタイトル「甘い思い出」はメンデルスゾーンがつけたタイトルではないのですが、当時は売れやすくするために、出版社側が勝手にタイトルをつけることはよくあったようです。ピッタリな題名ですよね。
みなさんにとって甘い思い出というのはどんなことを思い出すのでしょう?
わたしにとっては、やっぱりハート、色恋を想像してしまいます。
メンデルスゾーンでいえば、28歳のときにセシルという水彩画ではプロ級の腕をもつ、牧師のお嬢さんと結婚して、5人のお子様を授かっていますが、彼はある「スウェーデンのうぐいす」と呼ばれたソプラノ歌手ジェニー・リンドという女性に好感を持っていた時期もあるようです。
彼女は、有名なデンマークの作家アンデルセンに求婚された女性でもあります。それぞれの境遇と不思議な接点で、アンデルセンとメンデルスゾーンも芸術的にも影響しあう相手だったんですね。
♬「ヴェネツィアの舟歌」Op。30-6
ヴェネツィア、英語ではヴェニスといいますが、「水の都」、「アドリアの真珠」などの別名を持つヴェネツィア。運河にかかる橋の中でも個人的に気になるのは「ため息橋」 昔、子どもがよく見ているアニメの「ヤッターマン」この番組も最近は教養部分が盛り込まれてるのはご存知ですか?
国内でも国外でも名所などを紹介しているの。
たまたま見ていたら「イタリア」のときがあったのですが、その時にも紹介されていた白い大理石でできた「ため息橋」
地元では、恋人同士が日没時にゴンドラに乗ってこの橋の下でキスをすると永遠の愛が約束されるという言い伝えがあるんだそうです。
なので、ゴンドラでヴェネツィアを観光する定番コースになっているそうです。
・・・ですがね、このため息橋。この橋には覆いがあって石でできた格子の付いた窓がつけられていて、ドゥカーレ宮殿の尋問室と古い牢獄を結んでいるそうです。ため息橋という名前は独房に入れられる前に窓の外からヴェネツィアの美しい景色をみられるのは最後であるというので囚人がため息をつくということからイギリスの詩人が名づけたそうです。
まぁそういったことを知るとまた感慨深いものがありますね。
生まれもって背負ってきた運命とか・・・自分でどうにかしたくてもどうにも出来ないことってひとそれぞれ大なり小なりあるとは思うんですよね。
メンデルスゾーンで言えば、「ユダヤ人」であったということは、彼が生きていく中で大きなポイントだったのではないかなぁ?と思います。
驚きの教育法とスケジュール
母からピアノのてほどきを受け、才能を見出される。
お父さんアブラハムは銀行家、そして祖父は哲学者(カントにも影響を及ぼす)だったそうですが、「ユダヤ人」であったということはこの家族にとっては大きな問題だったと思います。
祖父モーゼスは14歳の時に歩いてベルリンに出てきて、一塊のパンを7等分に目盛りを刻み1週間食いつなぐような生活を何年も続けてドイツ語をはじめ文学、哲学、倫理学、数学、友人から英語、フランス語、ラテン語もすべて独学で習得して、カントを抑えて懸賞論文に優勝するけれどもユダヤ人は哲学では食べていけなかったようです。でもそれを武器に人の間にたつような役割、メンデルスゾーンの家は知識人たちの情報交換の場ともなったようです。
そんな家に生まれ育った父は、「教育こそが人間を作り上げる」と確信していて、そのことがユダヤ人としての偏見を跳ね返す唯一の盾だと考えていたんですね。
このお父さん「若い時には哲学者モーゼスの息子に過ぎず、年をとった今はフェリックスの父に過ぎない」とぼやいておますが・・・・
あのノーベル賞の受賞者も実にユダヤ人の割合が多い。それもやはり小さい頃からの教育が大きいとも言われています。
誰よりも父親が教育に関わり、「聴覚口頭法」つまり、耳で聞いて覚えそれを声に出すということをしたそうです。記憶の領域には右脳と左脳とあるけれど、右脳で覚えるから長く記憶に残るし、その訓練によって記憶の質が違ってくるようなんですね。
フェリックス・メンデルスゾーンも「夏の夜の夢」33歳の時に作曲していますが、その序曲に17歳の時に書いた曲をもってこようとしたけれど、楽譜が見つからなかったので、もう一度記憶を頼りに書き下ろし、そのあとにその楽譜が出てきたそうなんですが、ちょっと変更しようと書き換えた部分以外全く同じだったといいますから、すごい記憶力ですよね。
他家族は姉のファニー、妹のレベッカ(数学者と結婚)、弟のパウル(銀行の子会社を率いる実業家)
フェリックックスやファニーの一日のスケジュールもやはり凄い!
朝5時に起床。身じまいを整えるとラテン語、ギリシャ語、ギリシャの善理論、9時に朝食、10時~数学、11時~ピアノ、ヴァイオリン、楽理、声楽など音楽のレッスン。昼食後はドイツ語、ドイツ文学、英語、フランス語、絵画実後とダンス、水泳、乗馬など:・・・・
天才といわれる由縁には、やはりそれだけの努力なしではありえないでしょうね。
お姉さんである、ファニー・メンデルスゾーンも交流のあったシューマンや詩人ゲーテも彼女の才能を高くかっていました。本人も楽譜の出版を望んだり、音楽活動をしたかったようですが、父親は女性としての生き方としてそのような道を受け入れなかったようです。現代では、彼女は、ジェンダー(女性は女性らしく、男性は男性らしくなど・・・)研究の対象にもなっているようです。
メンデルスゾーンの功績20歳のときバッハの「マタイ受難曲」を上演したこと。⇒バッハの復興
パガニーニのベルリンでの初リサイタルと重なっていましたが、会場には入りきれない人が千人も出たと言います。公演は大成功で、更に10日後の3月21日(バッハの誕生日)に第2回の演奏会を行ったそうです。
当時は作曲家が自分の曲を演奏するというスタイルが多かったのを、あえてバッハやモーツァルトなどその当時にはいない作曲家の曲を演奏するというスタイルで行ったこと。
ライプツィヒのゲバントハウス管弦楽団(最古の民間オーケストラといわれる・1743年)の音楽監督に就任したこと
当時楽団員はあまり勉強せずに不平ばかり言う人が多かったらしく、さすがに温厚で育ちのいい彼もたまりかねて大声を出すこともあったようですが、その反面、楽団員の生活の保障を整えてあげ、徐々に質の向上に成功したそうです。
当時指揮者の地位がさほど認められていなくて、指揮棒を持って指揮をする人も少なかったけれども、鯨の骨を白い皮で巻いた軽い棒を使い白い手袋をはめて指揮をしたそうですよ。優雅な感じですね。
白い手袋というと「ショパン」を私は思い起こしますが、ショパンは1810年生まれで彼よりひとつ年下で、二人はパリで出会っています。
1843年、彼が34歳の時にライプツィヒコンセンルヴァトワールつまり音楽院を創設したこと
このコンセルヴァトワール、音楽院と言うのは、もともとバロック時代のイタリア人、特にヴェネチアの人たちをある人が称して「生涯の半分を宗教のいうところの罪を犯し、残りの半分で神の許しを願っている」とも言ったようで、その罪を犯した結果、多くの捨て子が生まれた。その頃その子どもたちを教会で養い、職業教育を与える機関を「コンセルヴァトーリオ」と呼んでいたようです。女子には音楽の教育、男子には日本で言う「読み書き算盤」それがのちに音楽の専門教育を与える機関になりフランス語で「コンセルヴァトワール」「音楽院」と呼ぶようになったようです。
ここではひとつ年下のシューマンも一時ピアノを教えていたそうです。音楽評論などもしていたシューマンとショパンを引き合わせたのはまさにメンデルスゾーンで、そのような出会いがなかったら、もしかしたら、いまのようなショパンの位置づけはなかったかもしれません。
人との縁というのはすごいですよね。
前の記事へ
次の記事へ